講座レポート Feed

2011年1月28日 (金)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート最終回

115日(土)午後2時から「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」の最終講座が開催されましたcherryblossomshine今回は公開講座だったので、初めからの受講生の方も含め、約80名のお客さまにご参加いただきましたhappy01講師は上智大学大学院を修了され、現在はセカンドハーベスト・ジャパン(NPO法人)の理事長としてご活躍されているチャールズ・マクジルトン先生でしたnotes

「助けないように助けられた」

~マクジルトンさんに学ぶボランティアのこころ~

マクジルトンさんは1963年アメリカに生まれ、1991年に上智大学入学と修道生活を志すため来日しました。その時修道会から二つの条件が出され、その一つが「東京のスラムで生活すること」だったそうです。「東京のスラム」、この表現はきつく、不適切なものかもしれませんが、とにかくマクジルトンさんは日雇い労働の方が多く生活されているまち山谷で生活することになったのです。

マクジルトンさんいわく、山谷での生活は「何かが違う、何かがおかしい」と感じるものでした。日雇い労働ではどうしても収入が安定しません。就職には住所と連絡先が必要になりますが、山谷の日雇い労働者の方はそれがないため、山谷地区の日雇い以外では働けないのです。そして仕事のない日や時期は食べるにも事欠くことになるのです。

そのため山谷にはたくさんのボランティアの方が訪れ炊き出しを行います。しかしその中で「受ける」と「与える」がはっきりと区別され、受ける側と与える側の交流があまりなされていなかったのだそうです。山谷ではマクジルトンさんも「先輩」と呼ばれ、与える側の人間として存在していたようです。そのような状況にあってマクジルトンさんは、大切なものは食料や家だけではない、ただ物をあげるだけでは不十分と感じました。そしてマクジルトンさんは何が足りないのかを追求するために、1997年から隅田川沿いでブルーシートの家の生活を始めるのです。

ブルーシートのテント生活は13カ月に及びました。ここでの経験でマクジルトンさんの人生が変わったのだそうです。ある時テントにはAさんとBさんとマクジルトンさんがいました。AさんとBさんには食料が不足していました。そこでマクジルトンさんは考え、二人の為にカップラーメンを用意しました。しかしAさんはそれを受け取りませんでした。Aさんはあくまで自己責任を持っていて、食べ物がないことも自分の責任で受け入れ対処するというスタンスをとったのです。そしてマクジルトンさんは気づきました。自分はそれまで「助けよう」と思っていたけれどそれは間違いだった、相手には「助けてほしい」という希望はなかったのです。それからマクジルトンさんは「相手を助けるためにやるのではなく、自分が楽しむためにやる」という意識でセカンドハーベスト・ジャパンを立ち上げました。

セカンドハーベスト・ジャパンは「すべての人に食べ物を」を目指し、炊き出し・ハーベストパントリー・フードバンク活動・政策提言発展を行うNPO法人です。もっとも特徴的なのは日本初のフードバンク活動で、これは食品製造メーカーや農家、個人などから、まだ充分食べられるにも関わらずさまざまな理由で廃棄される運命にある食品を引き取り、それらを児童養護施設やDV被害者のためのシェルター、路上生活を強いられている人たちの元へ届けています。セカンドハーベスト・ジャパンのスタッフの方々はその活動を楽しんでされているそうです。それが結果として相手からの「ありがとう」へとつながるのでしょう。助けようとして行動したわけではく自分が楽しんで行動したが結果として助けることができた、それが講演のテーマ「助けないように助けられた」に込められた意味、マクジルトンさんのボランティアのこころなのかもしれません。

最後にマクジルトンさんは私たちに力強い言葉を投げかけてくださいました。「私たちでなければだれがやる?無理なくできることがあるはずです。今でなければいつやる?今日からできることがあるはずです。」マクジルトンさんのお話から私たちがそれぞれにメッセージを受け取り、小さな実践に移していけるよう、願い努力したいと思います。

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2011年1月 4日 (火)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート第4回

1218日(土)、「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」第4回目の講座が開催されましたclover講師は上智大学神学部教授・山岡三治(やまおかさんじ)先生でしたshineshine

「たくましく生きる?」

~たくましく生きるとは~

世界中で「たくましく」生きている人たちがいます。国があります。例えば中国。近年の中国の発展は破竹の勢いで、そのスタミナやバイタリティを「たくましい」と表現できるかもしれません。また、例えば政治的行動や民主化闘争に取り組む人たち、宗教原理主義の人たちも、その方法が良いか悪いかは別として、時には命がけで自らの信念をたくましく貫きます。このような「たくましく」生きている人たちは、自分は何のために生まれて何をして生きるのか、つまり自分とは何かを深めていて、それが彼らのたくましさにつながっているのです。

一方で、「お坊様の楽しみは食べること・寝ること・へこくこと」という話もあります。実はこの基本的なことがとても大切で、それを意識しないと基礎(幹)が弱くなってしまうそうです。たくましく生きた偉大な先人の中には、物事の根本の価値を見出し、そこで得た価値を生きようとした人たちがいました。その代表が良寛とアッシジの聖フランシスコです。

良寛は、江戸時代に生きた曹洞宗の僧侶で、歌人、漢詩人、書家でもありました。18歳で出雲崎光照寺に入り以後69歳で没するまで、弟子もなく寺の和尚にもならず無一物の托鉢僧のまま限りなく素朴に生きました。良寛は子どもとよく遊び、誰にでもやさしく、人、動物、食物、山、月、星など万象に慈悲を抱く人でした。そのような良寛の感性をよく表している句があります。「形見とてなにかのこさむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」(訳:形見になにか残しましょう。春には花が咲いたら、夏にはほととぎすが歌ったら、秋には紅葉が美しく色づいたら、それが私の形見だと思ってください。)このように、人にやさしい良寛はいつも贈り物を考えます。この世を去る時の贈り物として考えたのは自分が美しいと思ってやまない自然の時の営みだったのです。この素朴さの中にも良寛のたくましさを感じます。

一方、アッシジの聖フランシスコは、1181年にイタリアの裕福な織物商人の息子に生まれ、若いころは放蕩の限りを尽くし華やかな生活に溺れていました。夢は騎士になって武勲を立てることでした。しかし勇んで出かけた戦場で捕虜になり、病に倒れてしまいます。戦いの虚しさを知ったフランシスコは故郷へ帰り、それまでとは全く別の生活を始めます。彼は祈りの中で「壊れかけようとする私の家を建て直しなさい」という神の声を聞くと、持ち物をすべて施し、貧しい人やハンセン病患者など社会から見捨てられた人々の真の友となりました。フランシスコが望んだのは、徹底的に小さく、貧しく、単純に生きることでした。また彼は、自然界にあるすべてのものを同じ神によって造られた兄弟姉妹と呼んで心から愛しました。晩年彼が作ったと伝えられる「太陽の賛歌」の中でフランシスコは太陽を兄弟、月を姉妹と呼んでいます。「…あなたが讃えられますように、わが主よ、あなたの創られたすべてのもの、わけてもわれらが兄弟、太陽のゆえに。彼はわれらに昼間を与え、明るく照らしてくれます。その上、彼は美しく、壮大に光り輝き、そしていと高きかた、あなたの栄光を映しています。…」このフランシスコの清貧と謙虚の生き方にもたくましさを感じます。

以上のように、良寛とアッシジの聖フランシスコは、与えられたものの美しさを常に知っていました。私たちも、例えば長く室内にいた後で見た外の景色や空の青さなどに、外はこんなにきれいだったのかと、はっとさせられた経験があるかもしれません。私たちは普段そのようなことは当たり前すぎて意識せず、あれもこれもとそこに無いものを追求しがちで、それが一種のたくましさと感じられるかもしれません。しかし、良寛やフランシスコのように、今ここに与えられたもののすばらしさを再発見し、いつでもその体験をもっていて深めていくことも、あるいは人のたくましさにつながっていくのではないでしょうか。

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2010年12月20日 (月)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート第3回

124日(土)、「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」3回目の講座が開催されましたshineshine今回の先生は上智大学文学部フランス文学科教授の永井敦子(ながいあつこ)先生でしたcherry

「言葉と生きる―20世紀のフランス詩人フランシス・ポンジュ―」

~幸福に生きる理由~

「あらゆる詩(ポエム)に、次のような題を付けることができて然るべきではないだろうか、幸福に生きる理由、と。」

フランシス・ポンジュ『前詩』より「幸福に生きる理由」(1948年)

多くの人にはあまりなじみのないフランスの詩人フランシス・ポンジュの詩は、日常の中から生まれる作品です。ポンジュは詩作が忙しい日常生活にブレーキをかける役割を果たすこと考えた詩人で、それが彼の「幸福に生きる理由」でした。

ポンジュの作品の特徴をとらえるために『物の味方』という詩集に着目します。まず詩集の題を一目見て漢字の間違いではないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これで正解です。ポンジュは物の側に立ち、それが自分(人間)の役に立つという人間中心の視点ではなく、物は物としてじっくり見たらそこに何が見えるのかと考えて作品をつくるのです。

『物の味方』は1942年、第二次世界大戦のさなかに出版された32篇の散文詩からなる詩集です。20世紀のフランス詩の中心は散文詩で、行分けもなくつらつら書き連ねるものでした。散文詩は、韻律、字数、句法などに制限のある韻文詩とは異なって、一見小説や手紙のような自由な文章の詩です。ポンジュの散文詩はまるで学生の課題論文のようで、はじめに導入部があり、物の形容を感覚的にとらえた展開部があって、結論へと導かれるのです。

それでは、『物の味方』を執筆していた時のポンジュをとりまく環境はどのようなものだったのでしょうか。『物の味方』の出版年は1942年ですが、作品の大部分は1930年代に書かれたものです。そのころのフランスは、ヒトラー率いるナチスが第一党になったドイツの脅威を感じ、イデオロギーも混乱し、心穏やかな時代ではありませんでした。ポンジュはアシェット書店の発送部門で単純作業に従事し、組合活動にも参加していました。私生活では結婚後娘が誕生し、一家の大黒柱として家庭を支えねばなりませんでした。このように、ポンジュが『物の味方』を執筆したのは公私ともにひっ迫した状況の時で、恵まれた環境の中ゆっくり書いたわけではなかったのです。

そのような環境の中でポンジュはどのように詩を書いたのでしょうか。ポンジュの『物の味方』は「毎晩寝る前の20分の産物」と言えます。ポンジュは忙しくて疲れた日々を送りつつも、眠る前の20分間に日常からの離脱を試みました。ポンジュは、詩作にあたって一つの物体、一つの概念を観照し、文字や言葉をつなぎ合わせて短いテキストをつくります。その際、1.物をじっくり見て主観的感情をはさまずに言葉で物を写生する、2.有用性重視の人間中心的思考から物を解放する、3.普段より近くから物をゆっくり見る、などして凝り固まった物の見方を改めます。すると新しいユーモア、皮肉、官能性、驚き、発見が導けるのです。

その具体例として『物の味方』から「ドアの楽しみ」「蝸牛」、『やむにやまれぬ表現の欲求』(1952年)から「一羽の鳥のためにとったノート」を読みました。作品でポンジュは物の音や形に注意をはらい、言葉の語源を思い出させたり、語呂合わせをしたりして、言葉との新しい関係を築いているようでした。

以上のように、ポンジュは月並みな日常における新世界との出会い、自分の中で忘れていたこと気づかなかったこととの出会いを経験し、それを言葉によって詩として紡いでいきました。これがポンジュの幸福に生きる理由だったのです。そしてこれは私たちの「幸福に生きる理由」としてのヒントを与えてくれるのかもしれません。

「私が一つの理由と名づけるものが、他の人々にはただの記述あるいは報告、あるいは何の意味もなく無用な描写と見えるかもしれない……観照によって(物をじっくり見ることで)歓びが私にやってきたのだから、描写によって(詩をつくることで)歓びの回帰が私に与えられる……こうした歓びの回帰、感覚をひきおこす対象を憶い出してさわやかな気持ちを得ること、それこそまさに、私が生きる理由と名づけるところのものだ。」

フランシス・ポンジュ『前詩』より「幸福に生きる理由」(1948年)

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2010年12月16日 (木)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート第2回

1127日(土)、「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」第2回目の講座が開かれましたsun今回は上智大学文学部教授、保健体育研究室の鈴木守(すずきまもる)先生が「身体のメッセージに寄りそって」という題で講義をしてくださいましたrun先生は、たくさんの笑いを織り交ぜつつ、最後には普段あまり意識していないけれどとても大切なことに気づかせてくださいましたcloverheart04

「身体のメッセージに寄りそって」

~社会が健康になるためにはどうしたらいいか、「身体(からだ)」という視点から考える~

1.「こころの学び」にあえて「身体」を語る意味

この講座のテーマは「こころの学びのススメ」ですが、先生はあえて「身体」という視点からアプローチします。近代の西欧思想からくる私たちの認識では、こころと身体を別物としてとらえがちです。難しい表現をすると心身二元論、簡単に表現すればこころの受け皿としての身体、つまり大事なのはこころであって身体についてはあまり興味を示さないことが多いのです。しかし、実際に私たちが何かを経験するとき、初めに身体が反応し次にこころが反応します。身体とこころは常に一緒にあり、切り離しては考えられない、だから「こころの学び」にあえて「身体」を語るのです。

2.学生の身体的変化―レスポンスができない

先生は学生の現状について、様々な事例を話されました。最近はコミュニケーションが成立しない学生が増えているそうです。コミュニケーションが成立しないとは、話を聞いてうなずいたり、相手に笑顔で応えたり、大抵の大人の人は身体にしみこみ身体化している反応ができないということです。先生はその反応を「レスポンス」と呼びます。

この大きな原因は人とのかかわりをあまり体験できないデジタル社会にあるようです。今の多くの学生たちにとって「友だちができる」とは携帯電話のアドレス帳に名前が登録されることです。登録数は500件くらいあるそうです。謝罪や感謝は相手の顔を見ずにメール1本で表現します。学生の話ではありませんが、授乳しながらメールを打つお母さんも多くいるそうです。このように、相手が同じ場所にいることを意識して、相手の表情を見ながらするコミュニケーションが希薄になっているため、いざ身体と身体のコミュニケーションが必要となる場面になると、身体が固くなっていて多くの学生は上手にレスポンスできないのです。

3.「理解する」から「感じる」へ

デジタル社会に慣れ親しんだ学生は「理解する」能力に長けています。携帯電話もパソコンもその他の電子機器も、機能をすぐに理解して使いこなすことができます。こういう今の世の中は「社会的に優位な感覚器」を最大限に利用する社会です。人間の感覚には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚があります。先生によれば視覚と聴覚が「社会的に優位な感覚器」となるわけですが、視覚や聴覚から入る情報(色や形や音など)は科学的に分析でき、人々の興味を惹くためそのように分類します。一方、触覚、嗅覚、味覚から入る情報は科学の対象になりにくく、あまり人々の興味を惹かないので「社会的に劣位な感覚器」と分類するのです。

しかし、先生はこの「社会的に劣位な感覚器」で感じることが大切だとおっしゃいました。例えば「人」という漢字を思い浮かべてください。これは、本来の象形文字の成り立ちとは異なりますが、二人の人が背中合わせになって互いにバランスよく支え合っているように見えます。一方が力を入れすぎたりどちらかに頼りすぎたりすると成立しません。背中の感覚で相手を感じ信頼し、身体をやわらかくして、どれくらいの力をそそげばバランスよく立てるかを考えて上手にレスポンスし合う。すると正常な「人」の文字になるのです。このような身体で感じその感覚に自然に反応することは特段意識もしませんが、実はとても大切なことなのです。

以上のように、存在しているのが当たり前すぎて意識しない「身体」に光を当てて、その「身体」から生まれる自然な反応・レスポンスが上手にできれば、今の硬直化した社会がほど良くゆるんで健康になるのかもしれません。

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2010年11月15日 (月)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート第1回

116日(土)、晴れわたる秋空の下、生涯学習センターおすすめ講座がスタートしましたflairその名も「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」ですshineこの講座では、冠にもありますが、足利にいながら上智大学の一流教授の講義が受けられるのですhappy01そしてテーマは「こころ」heart04「こころ」の疲弊が慢性化している現代社会において、私たちは疲れた「こころ」と向き合いながらこの与えられた生命をどう楽しみ生きていくのか?5回にわたって考えていきますclover

1回目は、上智大学人間科学部教授・久田満(ひさたみつる)先生がお越しになり、「エンパワーメントの心理学」という講義をしてくださいましたeyeglass受講生は42人でしたpencil以下その内容をまとめますcherry

1.エンパワーメントとは―言葉の意味

エンパワーメントを先生流にとてもやさしく表現すると「元気になること」となります。この言葉を初めに遣ったのは、アメリカ公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師で、その後学者によって「個人や組織、地域社会が自分たちの人生に対する統制感(sense of control)を自ら獲得しつつ、他者に与えていくプロセス」と定義されました。人生に対する統制感とは、「自分はこういう風に生きていきたい・こういう風になりたい」という希望で、自分自身がそういう感覚を身につけると同時に他者にも同じような感覚を与えみんなで元気になっていく、その一連の流れがエンパワーメントなのです。

2.エンパワーメントの必要性

人間は全員が全員「自分は自分の人生を生きているなぁ。色々問題はあるけれど、でもいい人生を送っているなぁ。」と感じられるわけではありません。自分を取り巻く環境によって、無力感・無能感・疎外感を抱く人がいます。無感動になる人がいます。スティグマ化(レッテルを貼って決めつける)が行われます。すると自分で自分を認めることができなくなり、自分の人生に対する統制感が欠如してしまうのです。例えば、身体や心に障がいを持つ方、エイズに感染した方、ホームレスの方、大学生などの一部には、エンパワーメントが必要です。しかもエンパワーメントは個人が対象ではありません。個人が所属するコミュニティ全体がエンパワーメントによって変化することが大切なのです。

3.エンパワーメント活動の具体例

先生は学問を実践に活かしてエンパワーメント活動をされています。1992年にアメリカの「がん医療」の現状視察をされてから、重い病気や障がいを持った子どものきょうだい児にもエンパワーメントが必要だと考え、「一人でも多くのきょうだい児をエンパワー(元気に)しよう!」を活動目標とした「サークル連(れん)」を大学の学生たちと立ち上げたそうです。ちなみに「きょうだい児」は、「そう簡単には治らない病気を持った子どもの兄弟姉妹」の意味で先生が遣う言葉です。きょうだい児たちの多くはその生活環境から、がまん強く、世話好きで、やさしい、しっかりした子に育つようですが、でも本当に思い通りに人生を歩んでいるのでしょうか。

サークル連のきょうだい児支援メインイベントは、毎年8月初旬に23日で行われるサマーキャンプです。参加者は、きょうだい児、その友だち、学生、OBOG、顧問で、参加者はみんな日常から離脱し解放され夢のような時を過ごします。そしてきょうだい児たちは様々な出会いを体験します。空、雲、水、風、草、森、鳥、火、月、星、虫、魚、同じ境遇の新しい友だち、先生を筆頭に“変な”大人たち、それらすべてに出会い、触れ合うことできょうだい児たちはエンパワーされ、最高の笑顔になるのだそうです。また、学生やお手伝いのOBOGたちも、ありのままの子どもを理解することができるようになったり、達成感や充実感を味わったり、何よりも子どもたちの最高の笑顔で自分たちにも笑顔が連鎖します。このようにサークル連のサマーキャンプでは子どもも学生も大人も思いっきり騒ぎ、はしゃぎ、歌い、踊り、そして笑い、みんな元気になるのです。

最後にサークル連の学生さんが編集した活動記録のDVDを見せていただきましたmovie本当にみなさんいい顔をしていて、見ている私たちもエンパワーされましたhappy01このいただいた元気を私たちもまた発信していけたらいいですねsun

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2010年2月 5日 (金)

Theあしかが学(後期)―講座レポート最終回

 去る1月23日(土)、栃木県南地域地場産業振興センター(地場産センター)大ホールにおいて、Theあしかが学後期の公開講座が行われましたsun

 公開講座の講師はかの有名な夜回り先生こと水谷修先生ですhappy02水谷先生は上智大学のOBとして、今回の足利工業大学・上智大学連携講座「Theあしかが学」の講師を引き受けてくださいましたshineshine演題は「今、子どもたちは・・・私たちにできること、しなければならないこと」でしたeyeear先生のお話は現場に生きる方ならではの現実感と迫力と心があって、約500名の受講生の中には涙をうかべながら耳を傾けている方もいらっしゃいましたweep

 先生は夜回りや電話やメールを通して出会った子どもたちのさまざまな現実を話してくださいましたmovie先生に出会って苦しみから解放された子どものお話を聞くと心があたたかくなる思いがしましたclovercherryblossomしかし、先生が全力ではたらきかけても助けられないいのちがあるのも事実だそうで、そのようなお話には心が痛みますtyphoon

 そうして、ユーモアたっぷりでしかも聞く人の心に深くしみとおる素敵なお話を通して、先生は私たちに「できること、しなければならないこと」をしっかりと気づかせてくださいましたhappy01その一つは「子どもたちを、相手を、認めること・受け入れること」、もう一つは「ことばよりも行動で示すこと」ですtulip

 これは実は「あたり前」のことかもしれませんcoldsweats01しかし多くの人にはその「あたり前」が難しいcoldsweats02水谷先生は、この多くの人には難しい「あたり前」を確実に実践なさっているのですflairそんな先生のお話を聞いた私たちは、自分の実践によって現実がよい方向へ変わっていくことを信じて、それぞれがそれぞれに行動に移していくことが大切なのかもしれませんconfident

2010年1月22日 (金)

平成21年度後期「The あしかが学」第4回講座レポート

今回も上智大学の大橋容一郎文学部教授をお招きして、「倫理問題から見た人間」と題した講義をいただきました。

大橋先生はドイツの人間中心の個人主義思想と、日本の地域社会がどのような倫理にもとづいてきたのかを対比する中で、1 人は不完全であり、すべての規範に適合する人はいない。 2 上からの押し付けではなく、主体性をもって行動する 3 自然に自発的にできあがったもの(倫理)を大事にする。ことが重要だとおっしゃっていました。

講義をお聞きしたなかでの感想は、「個人が心のよりどころとする倫理を持ち、他人の考え方に違和感を覚えたら、自分の考えを客観的に見て、修正すべきところは修正する心構えを持つことが肝要だ。」と思いました。

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2009年12月24日 (木)

第3回 Theあしかが学レポート「民族紛争からみた人間」

今回は、上智大学神学部神学科准教授のサリ・アガスティン先生の講義でした。先生は、インドにおけるコミュナル(民族主義)と題し、民族暴動の事例をもとに、少数派の安全保障について、説明されました。暴動が起きたところは、皮肉にも非暴力を唱えたガンジーの生誕地でした。どうして暴動がおきるのか?非暴力を研究する前に暴力を研究しようと、暴動がおきたすぐに現地にむかったそうです。その悲惨な状況は筆舌に尽くしがたいものでした。暴動の多くは、宗教や民族等の対立により、その少数派が恐怖と脅威にさらされているのが現状です。一方で、住民間の連携がうまく働いている社会では、根拠のない噂などにより、暴動が起こる確率は少ないとしています。先生は、受講生に人間とは本来暴力的存在であるか、平和的な存在なのか、質問を投げかける中で、宗教や言語を超えた、また、少数派や多数派を超えた、人間の安全保障の重要性を訴えていました。

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2009年12月22日 (火)

Theあしかが学(後期)―講座レポート第2回

 12月5日(土)、Theあしかが学・後期「にんげん学入門―こころの学びのすすめ」の第2回目の講座が行われましたhappy01この日の講師は上智大学神学部の瀬本正之(せもとまさゆき)先生で、「環境問題から見た人間」というテーマでご講演いただきましたbud瀬本先生のお話はとても面白く、わかりやすく、受講生の方々も満足のご様子でしたsmile今回も先生のお話をまとめてみますeyeglass

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●人間学とは

「私は人間です。」これは当たり前でまぎれもない事実であると同時に、人間としての価値や人間であるがゆえの課題も含んでいます。この世界に人間として生を受け生かされている私たち、果たして私たちは「人間らしく」生きているでしょうか。この問いが人間学の発露です。人間学とは「人間の尊厳」への問いなのです。

●環境問題と人間

地球温暖化、大気汚染、オゾン層破壊、砂漠化、異常気象などの環境問題は、現代に生きる人間にとって大変深刻な課題です。

この環境問題の解決策として、ある極論を耳にすることがあります。「地球上から人間がいなくなれば環境問題なんてなくなる。」確かにその通りかもしれませんが、やはりこの考え方はどこか根本的に違うような気がします。この考え方には「人間の尊厳」への問いが欠けているのです。

人間学の立場では、人間を3つの視点からとらえることができます。はじめに「個人」、次に「人類(人間性)」、最後が「人格」です。「個人」の視点は、「私のことは私が決めるから、あなたが勝手に決めないでね」という、ある意味消極的でせまい視点です。次の「人類・人間性」の視点は、「私たちのことは私たちが責任を持とうね」という、「個人」の視点に比べて随分積極的で広い視点です。最後の「人格」の視点は、「自分にはよくないところがあるなぁ、申し訳ないなぁ」という自覚、そして「自分の非をゆるしてくれる存在があるんだなぁ、うれしいなぁ、ありがとう」という感謝の視点です。

環境問題を人間学の立場で考えることは、「人類(人間性)」の視点と「人格」の視点でとらえることかもしれません。私たちは地球に対して無責任な行動をとることがあります。それでも地球は何も言わず静かにいのちを育んでいます。もしかしたら地球は無責任な行動をとった私たちをゆるしてくれているのかもしれません。地球のそのやさしさに感謝して、お返しに私たちも地球に対してやさしくなる。このような考えに立てば、人間は絶滅しないで環境問題と向き合っていけるのです。

最後に、地球のやさしさに感謝して地球にやさしくなるとはどのような意識なのか、3つ紹介します。

①自然の生存権…人間に都合がいいか悪いかは別にして、自然に存在するいのちを大切にしましょう。

②世代間倫理…今の私たちは将来の人たちのために自然のいのちを大切にしましょう。

③有限性の自覚…自然は限りあるもの、それは究極的にはみんなのためになるようにつかうんですよ。

環境問題に直面してその只中にいる私たちが「人間らしく生きる」とは、そのような意識を持つことなのではないでしょうか。

2009年12月21日 (月)

Theあしかが学(後期)―講座レポート第1回

 11月21日(土)、午後2時から生涯学習センター101号室において「Theあしかが学・後期」が始まりましたhappy01{Theあしかがが学・後期」は上智大学サテライト講座として、現在上智大学で教鞭をとっていらっしゃる4人の先生方と、上智大学のOBである「夜回り先生」こと水谷修さんをお招きしますsign03講座のタイトルは「にんげん学入門―こころの学びのすすめ」ですheart04

 第1回目の講座には、上智大学神学部の武田なほみ先生がいらして、「物語にみる人間とこころ」というテーマでお話してくださいましたeyeear以下に先生のお話をまとめてみますpencil

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私たちは「物語」が好きです。映画、ドラマ、小説、漫画、アニメなど娯楽として親しまれているものの多くは「物語」ですし、大学の文学部では学術的に物語が研究されています。なぜ私たちは物語に惹かれるのでしょうか。そして物語とは私たちにとってどのようなものなのでしょうか。

人間の思考には2つのパターンがあります。ひとつは論理・実証のパターンで、こちらは客観的で普遍的な思考です。もうひとつは物語のパターンです。こちらは出来事や経験に意味づけをし、人間の意図や感情を伝達します。物語の場合、私たちは語り手または聴き手としてストーリーに参加することができます。

物語には一定のパターンがあります。それは「はじまり」→「展開部」→「終局部」という流れです。物語の主人公は「展開部」においてよくピンチを経験します。ただしピンチで終わるのではなく、助け手との出会いがあったり、協力して困難を乗り越えたり、それによって成長したりもします。そして「終局部」で主人公は新しい自分に気づきます。それは、他者とのかかわりの中で生きている自分、他者に受け入れられている自分、他者を愛し受け入れる自分です。これが主人公の人生にとって大きな一歩となるのです。

そして、物語に接する私たちは甘く切ないストーリーややさしくてあたたかいストーリー、楽しくてわくわくするストーリーを追体験できたり、自分の経験と照らし合わせていくことができます。つまり、物語は人間の生の歩みそのものが語られ、それに共感できることが物語の楽しみなのです。