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2011年1月 4日 (火)

平成22年度Theあしかが学(後期)講座レポート第4回

1218日(土)、「上智大学サテライト講座・Theあしかが学(後期)にんげん学入門―こころの学びのススメⅡ―」第4回目の講座が開催されましたclover講師は上智大学神学部教授・山岡三治(やまおかさんじ)先生でしたshineshine

「たくましく生きる?」

~たくましく生きるとは~

世界中で「たくましく」生きている人たちがいます。国があります。例えば中国。近年の中国の発展は破竹の勢いで、そのスタミナやバイタリティを「たくましい」と表現できるかもしれません。また、例えば政治的行動や民主化闘争に取り組む人たち、宗教原理主義の人たちも、その方法が良いか悪いかは別として、時には命がけで自らの信念をたくましく貫きます。このような「たくましく」生きている人たちは、自分は何のために生まれて何をして生きるのか、つまり自分とは何かを深めていて、それが彼らのたくましさにつながっているのです。

一方で、「お坊様の楽しみは食べること・寝ること・へこくこと」という話もあります。実はこの基本的なことがとても大切で、それを意識しないと基礎(幹)が弱くなってしまうそうです。たくましく生きた偉大な先人の中には、物事の根本の価値を見出し、そこで得た価値を生きようとした人たちがいました。その代表が良寛とアッシジの聖フランシスコです。

良寛は、江戸時代に生きた曹洞宗の僧侶で、歌人、漢詩人、書家でもありました。18歳で出雲崎光照寺に入り以後69歳で没するまで、弟子もなく寺の和尚にもならず無一物の托鉢僧のまま限りなく素朴に生きました。良寛は子どもとよく遊び、誰にでもやさしく、人、動物、食物、山、月、星など万象に慈悲を抱く人でした。そのような良寛の感性をよく表している句があります。「形見とてなにかのこさむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉」(訳:形見になにか残しましょう。春には花が咲いたら、夏にはほととぎすが歌ったら、秋には紅葉が美しく色づいたら、それが私の形見だと思ってください。)このように、人にやさしい良寛はいつも贈り物を考えます。この世を去る時の贈り物として考えたのは自分が美しいと思ってやまない自然の時の営みだったのです。この素朴さの中にも良寛のたくましさを感じます。

一方、アッシジの聖フランシスコは、1181年にイタリアの裕福な織物商人の息子に生まれ、若いころは放蕩の限りを尽くし華やかな生活に溺れていました。夢は騎士になって武勲を立てることでした。しかし勇んで出かけた戦場で捕虜になり、病に倒れてしまいます。戦いの虚しさを知ったフランシスコは故郷へ帰り、それまでとは全く別の生活を始めます。彼は祈りの中で「壊れかけようとする私の家を建て直しなさい」という神の声を聞くと、持ち物をすべて施し、貧しい人やハンセン病患者など社会から見捨てられた人々の真の友となりました。フランシスコが望んだのは、徹底的に小さく、貧しく、単純に生きることでした。また彼は、自然界にあるすべてのものを同じ神によって造られた兄弟姉妹と呼んで心から愛しました。晩年彼が作ったと伝えられる「太陽の賛歌」の中でフランシスコは太陽を兄弟、月を姉妹と呼んでいます。「…あなたが讃えられますように、わが主よ、あなたの創られたすべてのもの、わけてもわれらが兄弟、太陽のゆえに。彼はわれらに昼間を与え、明るく照らしてくれます。その上、彼は美しく、壮大に光り輝き、そしていと高きかた、あなたの栄光を映しています。…」このフランシスコの清貧と謙虚の生き方にもたくましさを感じます。

以上のように、良寛とアッシジの聖フランシスコは、与えられたものの美しさを常に知っていました。私たちも、例えば長く室内にいた後で見た外の景色や空の青さなどに、外はこんなにきれいだったのかと、はっとさせられた経験があるかもしれません。私たちは普段そのようなことは当たり前すぎて意識せず、あれもこれもとそこに無いものを追求しがちで、それが一種のたくましさと感じられるかもしれません。しかし、良寛やフランシスコのように、今ここに与えられたもののすばらしさを再発見し、いつでもその体験をもっていて深めていくことも、あるいは人のたくましさにつながっていくのではないでしょうか。

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