7月16日(水)、Theあしかが学第7回目の講座が開かれました今回は久しぶりのあしかが学主催の講座で、講師に足利市教育委員会文化課・大澤伸啓氏をお迎えし、お話を伺いました最近のあしかが学は、渡良瀬ケーブルテレビの取材も入り、受講生も盛り上がっています
テーマ:足利学校を語れますか?―世界遺産暫定リスト登録の意味―
問題提起:足利学校が世界遺産暫定リストに登録されることの意義
現在足利市では、「足利学校と足利氏の遺産」と銘打って、足利学校と他2つの国史跡のユネスコ世界遺産登録を目指しています。この「世界遺産」ですが、登録されるまでには長い道のりがあります。
・第一段階は国内の審査を通過し「世界遺産暫定一覧表」に載ること
・第二段階はユネスコへ推薦書を提出すること
・第三段階で国際記念物遺跡会議の現地調査を受ける
・第四段階で世界遺産委員会による審議
それを通過すると晴れて「世界遺産」となるのです。「足利学校と足利氏の遺産」はまだ第一段階にあり、世界遺産暫定一覧表に記載されるか否かが検討されているところです。
このように、世界遺産登録にはまだまだ時間がかかるのですが、その間に私たちは世界遺産登録のための準備ができます。準備とは足利学校についての知識を蓄えることです。この準備の一環として、足利学校の歴史と建学の理念について大澤先生はお話してくださいました。
足利学校の歴史ですが、その成立や初期の体制については記録が残っていないため、諸説あります。足利学校の歴史が明らかになるのは室町時代、関東管領・上杉憲実の再興からです。上杉憲実は、現在国宝に指定されている貴重な書籍を寄進したり、庠主(学長)制度を設けるなどしました。そして、足利学校の最盛期は戦国時代と言われています。1550年頃は「学徒三千人」と言われ、足利学校の存在はキリスト教宣教師の記述によってヨーロッパにも知られるようになりました。その後、江戸時代前期~中期に足利学校は二度目の繁栄を迎えます。この時は、幕府から100石の所領を寄進されたり、毎年の初めにその年の吉凶を占った「年筮(ねんぜい)」を幕府へ提出したり、孔子廟や三門も創建されました。しかし江戸時代後期以降、足利学校は坂東の大学の役目を終え、藩校へと移行し、それも明治5年に廃校となりました。それからの足利学校は建物の撤去や蔵書の散逸といった混乱期に入りますが、先人のたゆまぬ努力によってそれを乗り切ります。そして昭和57年に「史跡足利学校跡保存整備事業」が始まり、平成2年12月、江戸中期の姿に蘇ったのです。
以上のような歴史を辿った足利学校ですが、その建学の理念は今なお足利のまちに息づいています。足利学校の建学の理念は「自学・自習」です。「自学・自習」とは、あらゆる分野への興味関心を大切にし、それらを満たすために自主的・自発的に学び続けることです。これは「生涯学習」と呼ばれ、市の事業でもさかんに行われており、足利市の個性となっています。足利学校へ興味関心を抱き、自発的に足利学校について学ぶことも、足利学校の建学の理念に基づく行いと言えます。そしてその行いが、世界遺産暫定一覧表登録への活力ともなるのです。
このように、足利学校について学びを深めた先に「ユネスコ世界遺産国内暫定一覧表入り」があります。もしもそれが叶うなら、足利のまちにとって重要な意義があると思います。
結論:ユネスコ世界遺産国内暫定リスト入りすることは、その財産の価値を認められることであり、私たちのふるさとへの誇りを新たにし、愛着を高めることになる。
足利学校や「足利学校と足利氏の遺産」世界遺産登録に関する情報→
世界遺産登録 http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/01_kakuka-page/10_kyouiku/05_bunka/sekaiisan/sekaiisan-home.htm
史跡足利学校 http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/01_kakuka-page/10_kyouiku/06_ashikagagakou/gakko.html